博多、について

先日、屋台で酒を飲んでいた。

福岡の屋台に座れば、だいたい同郷の人間が集まってくる。

学生、サラリーマン、ミュージシャン、年金暮らしの老人。

どうでもいい世間話から、なぜか人生の核心に触れる話まで、話題は雑多だ。

その晩は、観光客も混じっていた。

すると妙なことが起きる。

誰に頼まれたわけでもないのに、周囲の福岡の人間たちが、示し合わせたように彼らをもてなし始めたのだ。

酒を注ぎ、店を教え、福岡の良さを語り、「また来い」と言う。

頼まれてもいない。

それでも、やる。

この衝動はいったい何なのか。

博多という土地は、古くから「外」と向き合ってきた町だ。

弥生の頃にはすでに大陸交流の拠点となり、平安から鎌倉にかけては日宋貿易の玄関口として栄えた。

商いとは、人と人の関係そのものだ。

客を迎え入れ、機嫌を取り、居心地を整えられなければ、商売は成立しない。

つまり――

もてなしは、博多にとって生存戦略だった。

ビジネスで良好な関係を築く秘訣は「遊ぶこと」だ、とよく言われる。

博多の人間は、それを理屈ではなく身体で知っている。

観光客アンケートで、福岡の好印象が

「飯が安くて美味い」「女性が綺麗」に集中するのも、偶然ではない。

説明はいらない。

理屈もいらない。

美味い飯と酒を出し、場を和ませれば、それでいい。

だが、ここに致命的な落とし穴がある。

相手を気持ちよくさせようとするあまり、軽口が過ぎる。

リップサービスがエスカレートする。

本人は善意のつもりでも、受け取る側には

「口先ばかり」「ノリだけ」と映る。

福岡の「嫌いな理由」ランキングで、この評価が上位に来るのは、

なんという皮肉か。

ここで一度、はっきりさせておく。

歴史的に「もてなしてきた町」は、福岡ではない。

博多だ。

江戸時代まで、両者は別の町だった。

博多は商人の町。

福岡は黒田藩の城下町。

文化も、気質も、本来はまるで違う。

明治の廃藩置県で両者は合併し、「福岡」という名前に統一された。

だが、性分まで統一されたわけではない。

観光客を前にして、なぜか酒を注ぎ、お節介をし、饒舌に場を回す。

それを「福岡の人は優しい」と評価されることがある。

違う。

それは優しさではない。商売人の反射神経だ。

博多は、外から来る人間を取り込み、金と情報を循環させて生き延びてきた町だ。

もてなしは美徳ではなく、技術だった。

自分の振る舞いに思う節があれば、

ルーツは博多なのかもしれない。

化粧、について

化粧品がすごいのか、当人の技術がすごいのか、それとも両方か。
とにかく、女性の化粧は見ていて感心する。

なにがすごいって、すっぴんとのギャップだ。
あれほどの変化を日常的に成立させている文化は、ちょっと他に思い当たらない。
顔という情報をほとんど書き換えられているわけだ。
化粧の上から素顔を正確に見抜くのは、難しい。
俺が若さを謳歌した平成。当時のギャルは自眉毛がなかったんだ。
まつ毛もバッサバサで。持ち帰った素性のわからない女が、朝になると抵抗なくメイクを落とすわけだ。
期待している自分が、いちばんみっともないと知りながら、その横顔を、男は見てはいけない顔で見ている。
この時代、すっぴんのギャップに対して男は厳しく見ていた。
女を抱いたあとも仲間内では「どうだった?」という確認がある。行為の感想ではなく「顔、どうたった?」だ。
そんな時代だったこともあり、スッピンと化粧のギャップを逆手に取った自虐ネタがニコニコ動画などで流行った。
スッピンに対する男の不満をネタにしたカウンター的なエンタメだった。
覚悟も含めて、すごいなと思った。

だが今の「すっぴん」は違う。照明、角度、加工。全部整えた上で「ほら、これが私」とぬけぬけと出てくる。

コメント欄を覗くと、サクラと思われる「かわいい!」「若い!」「透明感!」そんな言葉が、これでもかと並んでいる。

呆れて頭を抱えてしまう雑誌を見つけた。

「もとから美人風メイク」
発想が姑息すぎる。

俺たちが女性の素顔を見るのは、形式的に段階を踏んで、枕を交わしたそのあと。
しかし結果がどうあれ納得はする。

クジと同じだ。駄菓子屋でくじを引いて、「すみません、これハズレだったんですけど」などと返品を要求するか?
しないだろ。同じことだ。

なにが悪いという話ではない。
問題なのは勝手に期待して、勝手に動揺している男の耐性の低さなのかもしれない。

夢、について

夢を語ったときに、親に否定される。

当たり前だ。

夢というものは、親にとっては基本的に「迷惑」だからだ。

「食えない」「現実を見ろ」「地に足をつけろ」

それは暴言ではない。

生活を知っている側の、極めて具体的な恐怖だ。

そして、最後に出てくる言葉がある。

「だれのおかげで生活していると思っているんだ」

この言葉は正しい。

同時に、卑怯でもある。

正しいからこそ、使ってはいけない。

なぜならそれは、議論ではなく、上下関係の確認だからだ。

考えることをやめさせるための言葉だ。だが、勘違いするな。

親が間違っていて、子どもが正しい、という話ではない。

夢を持つ若者の多くは、現実を知らない。

知らないから夢を見る。

それ自体は罪ではないが、武器にもならない。

夢は、語った時点では無力だ。

言葉にしただけで、世界は一ミリも動かない。

それでも夢を持ち続けたいなら、やることは一つしかない。

黙って、手を動かすことだ。

親を説得するな。

理解を求めるな。

評価を欲しがるな。

結果を出せ。

それも、大きな結果じゃなくていい。

「やっている」という事実を、積み上げろ。

人は、動いているものしか信用しない。

これは冷酷な真実だ。

「好きだ」「やりたい」「夢なんだ」

そんな言葉を何度も口にするな。

それは自分に酔うための麻薬だ。

本当にやる人間は、計画を持つ。

いつ、どこまでやるのか。

失敗したら、どう戻るのか。

それを考えるだけで、夢は半分死ぬ。

だが、死なない夢だけが残る。

親の庇護の下で夢を見ることを、恥じる必要はない。

だが、それを盾に甘えるな。

生活は敵ではない。

生活を踏み台にできない人間に、夢を語る資格はない。

夢は、守ってもらうものじゃない。背負うものだ。

「だれのおかげで?」

それは過去の話だ。

問われるべきなのは、ただ一つ。

これから、何を背負うつもりなのか。

それに答えられないなら、夢はまだ言葉のままだ。

 

そしてあなたは正しい。

少なくとも、現実に関しては。

子どもが語る夢の多くは、甘い。

具体性がなく、危険で、成功の見込みも薄い。

それを見て不安になるのは、親として自然だ。

だからあなたは言う。

「食っていけない」

「現実を見ろ」

「地に足をつけろ」

ここまでは、正論だ。

だが、そこで

「だれのおかげで生活していると思っている」

と言った瞬間、あなたは一線を越える。

その言葉は、現実の説明ではない。支配の宣言だ。

養っているという事実を、「考える権利」を奪うために使った時、

あなたは親ではなく、管理者になる。

子どもは、あなたの所有物じゃない。

あなたの人生の延長でもない。

あなたの恐怖を預ける容器でもない。

あなたが恐れているのは、

子どもの失敗ではない。

自分の選択が否定されることだ。

子どもが夢を追って失敗したとき、

「ほら見ろ」と言える準備をしているのは、

本当はあなた自身の心を守るためだ。

だが、忘れてはいけない。子どもを産んだ時点で、

あなたは「安全な道を歩かせる権利」を得たのではない。

得たのは、転ぶかもしれない人間を支える義務だけだ。

夢を潰すのは簡単だ。

不安を語ればいい。

数字を出せばいい。

成功例の少なさを並べればいい。

だが、それで育つのは、安全な子どもじゃない。

自分で決断できない大人だ。

夢を語られたとき、

あなたがすべきなのは否定ではない。問いだ。

「どうやって食うつもりだ」

「いつまでやるつもりだ」

「ダメだったら、どう戻る」

それを聞く覚悟がないなら、あなたは現実を語る資格もない。

不安は、ぶつけるものじゃない。共有するものだ。

あなたが先に折れろ。命令するな。

条件を出せ。

責任を持たせろ。

そして最後に、これだけは覚えておけ。

子どもは、あなたの夢の続編じゃない。

あなたが諦めた道の、やり直しでもない。

別の人間だ。

それを認められないなら、

「だれのおかげで?」という言葉を二度と口にする資格はない。

 

あなたも、間違っていない。

少なくとも制度の中では。

成績、進路、内申、就職率。

あなたはそれを管理する役目を負っている。

夢や感情より、数字を見る立場だ。だから言う。

「現実を見ろ」

「無理な進路だ」

「安全な道を選べ」

それは職務として、理解できる。

 

だが、はっきり言う。

あなたは、未来を判断する権限を持っていない。

学校は、人を振り分ける場所ではない。

可能性を早期に処理する場所でもない。

あなたが見ているのは、

「今、この瞬間の能力」だけだ。

それを未来に投影するのは、傲慢だ。

教師が一番やってはいけないのは、

夢を評価することだ。

夢は点数化できない。

データに落とせない。

だからこそ、扱ってはいけない。

それなのにあなたは、

「向いていない」

「才能がない」

「やめておいた方がいい」

と、軽々しく言う。

それは指導じゃない。線引きだ。

あなたは失敗の責任を取らない。

夢を諦めさせた責任も取らない。

それでも言葉だけは、子どもに残る。

あなたが忘れていることがある。

若者は、完成品じゃない。

未熟で、過剰で、矛盾だらけだ。

そこを削って整えるのが教育だと思っているなら、

それは管理だ。

夢を語る生徒に対して、

あなたがすべきなのは否定ではない。

条件提示だ。

「その進路なら、これが足りない」

「ここまでは覚悟がいる」

「これだけの準備が必要だ」

それを示さずに「無理だ」と言うのは、

指導ではなく、放棄だ。

そして、これだけは覚えておけ。

教師の一言は、親の言葉より深く刺さることがある。

なぜなら、教師は“社会の代表”だと思われているからだ。

その立場で夢を切るなら、

あなたは覚悟を持て。

その子が、二度と夢を語らなくなっても、

その沈黙を引き受ける覚悟を。

できないなら、

夢を語る生徒の前で、

自分の「安全な正しさ」を振りかざすな。

教育は、未来を決めることじゃない。

未来に耐える人間を残すことだ。

 

そしてお前は、分かっていたはずだ。

世界は優しくない。

努力は裏切られる。

才能は理不尽に選別される。

それを誰よりも早く知っていたくせに、

それでも夢を捨てなかった。

なぜだ。

才能があったからか?

違う。

才能があるかどうか分からないまま、やってしまっただけだ。

お前は、覚悟があったわけじゃない。

ただ、止まれなかっただけだ。

失敗した。

何度もだ。

評価されず、誤解され、叩かれ、

「分からない」と言われ続けた。

それでも続けたのは、

正しいと思ったからじゃない。

逃げたら、空っぽになると知っていたからだ。

夢は、人を救わない。

むしろ人を壊す。

体力を削り、

人間関係を壊し、

精神をすり減らす。

それでも、お前は夢をやった。

なぜなら、

夢をやらない自分のほうが、

もっと嫌だったからだ。

ここで一つ、はっきりさせておけ。

お前は、正しくなかった。

立派でもなかった。

模範的でもない。

ただ、自分を誤魔化さなかった。

それだけだ。

若い人間に言うな。

「努力すれば報われる」なんて。

嘘だ。

言うなら、これだけにしろ。

努力しても、ほとんどは報われない。

才能があっても、潰れる。

運がなければ、終わる。

それでも、

やってしまう人間がいる。

お前も、その一人だった。

誇るな。

美談にするな。

正当化するな。

だが、否定もするな。

夢は、正解じゃない。

逃げ道でもない。

呪いだ。

そしてお前は、その呪いを、

最後まで引き受けた。

それでいい。

自分に向けて言うなら、

それだけで十分だ。

 

仕分け、について

ONE OK ROCK」というバンドについて、

名前とイメージだけは知っている。

売れていて、ボーカルのTaka氏は整った顔立ちで、

いわゆる“成功している男”という印象だ。

2017年5月21日、

Taka氏は自身のインスタグラムに

「!!!!!!!!!!!」というコメントを添え、

ハリセンボンの春奈氏とたわむれる約20秒の動画を投稿した。

動画内では、Taka氏が春奈氏のあごに手をかけ、

キスをしようとする様子が映っている。

春奈氏は顔を真っ赤にして

「殺されちゃう!こ、ころ……」と声を上げ、身をよじって抵抗する。

笑いをこらえきれなくなったのか、言葉を詰まらせながらも抵抗を続けるが、

最終的にはかなわず、Taka氏のくちびるが彼女の右頬に触れた。

一連のやり取りは、バラエティ的な演出として処理され、

笑いとともに流れていく。

正直、最初は何も思わなかった。

「仲がいいんだな」「テレビ的だな」

それで終わらせることもできた。

だが、引っかかった。

もし相手が、いわゆる“綺麗な女”だったら、

同じように処理されていたか?

否。

この差は何なのかと考えると、

答えはあまり気持ちのいいものではない。

俺は無意識のうちに、女性を「異性としてどれだけ意識するか」で分類している。

異性として強く意識する相手には、妙に慎重になる。

嫌われたくないし、問題を起こしたくない。

一方で、そうでない相手には、どこか気が緩む。

その緩みは、優しさではない。

「この人なら大丈夫だろう」という、一方的で身勝手な判断だ。

 

俺の身近な話をする。

飲み仲間の中に、膝のない丸々と太っている女性がいた。

周囲からはネタキャラ扱いされ、

本人もそれを受け入れ、場を回す側にいた。

笑われることも、雑に扱われることも、成立していた。

ところがある時、彼女がダイエットを始めた。

会うたびに目に見えて痩せていき、同時に空気が変わった。

以前のような

「どうぞ好きにいじってください」という雰囲気が消え、

自分をネタとして消費されることを拒む気配をまとい始めた。

周囲は戸惑う。

 

HPと防御力だけが取り柄だったにもかかわらず、

そのアドバンテージを捨てて、伸びしろのない魅力値にステータスを振り始めた。

 

つい最近まで、ギャッギャと笑う肉の塊だった相手を、

急に“女性として”取り扱わなければならなくなった。

 

「雑に扱っても良心が痛まない存在」から

本人の希望により「そうではない存在」に分類し直された。

敬意が芽生えたわけではなかった。

 

今回の件も、構造としてはそれに近い。

相手が春奈氏であり、ネタとして成立するキャラクターが共有されているからこそ、

あの距離感は「微笑ましいもの」として受け取られる。

実際、ファンの反応も

「微笑ましい」

「春菜ちゃん可愛いなぁ」

といった、生ぬるいものが多かった。だが、仮に相手が

“可愛い女性”だったなら、反応はまったく違ったはずだし、

そもそもtaka氏もスキンシップ自体、控えただろう。

春奈氏はプロの芸人だ。

本人にとって問題のないやり取りだったのかもしれない。

なので、そこを責めるつもりはない。

 

問題は、誰かが悪いことをしたかどうかではない。

俺が、誰に対してなら雑に振る舞ってもいいと感じてしまうのか。

その感覚を、ほとんど疑わずに生きてきたことだ。

敬意は本来、好意や欲望とは切り離されるべきもののはずなのに、

現実では、その二つはかなり雑に混ざり合っている。

言っておくが、これはこれは彼らの話ではない。

これを「何も問題ない」と流してきた、俺自身の話だ。

道、について

AVの前振りを飛ばして、行為のシーンへ一直線。

それも昔の話だ。

瞬間湯沸かし器のように興奮できるほど俺は思春期ではないらしい。

美女が裸で突然現れたとしてだ。俺は発情しないだろう。

大抵の物事に「急に」というはよくない。

本来、性行為へ至るまでの過程が充実していないと欲情は難しいと思うんだ。

想像する時間、期待が育つ時間。それを割愛してハァハァ盛るのは若いうちだけだ。

最初に見る女の状態は「着衣」である必要がある。

そこから少しずつ距離が縮まり、段階を踏んでいく。

この“プロセス”こそが、欲情を立ち上げる基本的な装置なのだと思う。

「出会って即合体シリーズ」なんてものは全く感情移入ができない。

血流が追いつかない。

 

古来、日本人は過程を重んじてきた民族だ。

結果よりも、そこに至る道筋。

それは、あらゆる文化に染みついている感覚なのだ。

武道・芸道には「道」という概念がある。

「道」とは、完成や勝利ではなく、修練の継続そのものを価値とする思想である。

試合に勝っても「未熟」と言われる。

一生修行、死ぬまで途中の世界だ。

日本人が結果主義なら“柔術”“剣術”で止まっているはず。

それをわざわざ「道」に昇華させたのが日本的ではないか。

茶道がお茶を飲む目的に対して異常に遠回りなのは、効率を捨てて、過程を意味化する文化だからと思う。

どの分野にも道がある。

肌そのものより、布の向こう側に想像を置く。

完成よりも、未完の時間に色気を見出す。

欲情とは、本来そういう“途中”に宿るものと思う。

こうした過程重視の感覚は、性の場面にもそのまま表れる。

いわゆる「焦らしプレイ」と呼ばれるものだ。

欲をすぐに完結させず、確定させない時間を共有するという、日本人の趣ある精神を表現した作法に思える。

触れられると分かっていて、触れない。

次があると分かっていて、先に進まない。

その「まだ」を重ねることで、欲は形を持ち始める。

焦らしとは、与えないことではない。

結果を遅らせることで、過程を濃くする技法だ。

元より段取りに興奮するタイプだったが、この年齢でより顕著になった。

ある文献には、「なぜ女性の着衣が重要なのか」という問いに対する回答があった。

その説によれば、男性の脳は「全裸の女性」を本能的に《すでに性交渉を終えた状態》として認識する傾向があるという。

生物として考えれば、すでに妊娠している可能性のある相手に対して、自分の遺伝子が入り込む余地はない。そう判断する合理性が、無意識のうちに働くのだという。

だからこそ、最初に目に入る女性の状態は「着衣」である必要がある。

そこから段階を経て「脱がす」「全裸になる」というプロセスそのものが、意味を持つ。

つまり本能が求めているのは、裸そのものではない。

「裸にできる可能性がある状態」ということだろう。