sns、について

 

承認欲求の塊みたいな人間は、醜い。
言い換えはしない。醜いものは醜い。

そばにいると空気が濁る。
話してもいないのに疲れる。
視界に入るだけで、こちらの体温が下がる。

「認めろ」
「いいねを寄越せ」
「羨ましいだろ」
「俺は間違っていないだろ」

本人は発していないつもりでも、全部透けている。
人間は、そんなに上手く嘘をつけない。

Facebookをやめたのは正解だった。
あそこは、人間の欲望を煮詰めて冷やした
承認の墓場だ。

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インスタバエ、という皮肉は感心した。
自分が汚物を舐めている自覚すらないのだから。

だが、笑っているこちら側が
本当に無傷かといえば、そんなことはない。

キラキラした生活を切り貼りして生きている連中を見て、
「くだらない」と思う。
同時に、「羨ましい」とも思っている。

この二つが同時に成立する自分を、
いちばん信用できない。

SNSの承認は、光だ。
だが、光は人間を焼く。

常に更新しろ。
常に輝け。
だが止まった瞬間、価値はゼロだ。

それを分かっていて、やめられない。

 

知り合いのネイルの写真が上がる。

どうでもいいはずの指先だ。

だが、目は勝手に動く。

指輪。

時計。

ブランド。

ネイルは言い訳だ。

本体は「私は勝っている」という主張だ。

正面から言えば嫌われる。

だから迂回する。

安全な話題に化けて、

承認だけをかすめ取る。

この手間が、

どれだけ必死かを物語っている。

まさに汚物にバケツいっぱいのシャネルをぶっかけた代物だ。

 

ワンショット消費という言葉があるらしい。

買って、撮って、売る。

消費の目的が「所有」から「利用」へと移りつつある。

人とモノの関係が薄くなっているのは悲しい。

ファスト文化というのは感動する力を奪う。俺は嫌いだ。

 

承認欲求は、弱い人間のものじゃない。

むしろ、強すぎる人間が陥る病気だ。

「私は特別だ」

「埋もれるはずがない」

「評価されないのはおかしい」

我執。

臨界点を超えたとき、人は壊れる。

理性は簡単に溶ける。

炎上狙い。

過激な動画。

「認められないなら、破壊してでも見せてやる」

これは異常ではない。

人間として、極めて素直だ。

存在を無視されるくらいなら、

嫌われたほうがマシだ。

 

若者の事故率が

「見られている場面」で上がるのも同じだ。

人は、引き返すより、破滅を選ぶことがある。

承認は、人を前に進ませる。

同時に、崖から突き落とす。

それでも社会は、承認をやめられない。

褒めれば人は働く。認めれば辞めない。

 

この欲求は、否定できない。

だが、放置すると怪物になる。

誰に認められたいのか。どこで満足するのか。

それを決められない人間は、一生、観客の拍手を探して徘徊する。

拍手が止まった瞬間、自分が空っぽだと知るのだ。


承認欲求を制御できない人間が多すぎる社会は、不健全だ。

その不健全さを「みんなやってるから」で正当化する人間から、順番に壊れていく。

答えはない。

救いもない。

あるのは、

距離を取れるかどうか、だけだ。

おれは他人の視線に飼われるのは御免だ。

ドラゴンクエストⅤ、について

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ゲームを知らない人でも、「ドラゴンクエスト」と聞けば「勇者の物語」を思い浮かべるだろう。
だが『ドラゴンクエストⅤ』は、その前提を気持ちよく裏切ってくる。
この物語の主人公は、勇者ではない。

物語の序盤、主人公の父・パパスは魔王の一味に殺され、こう言い残す。
「魔王にさらわれた母を救うために、“天空の武器”と“天空の防具”を身につけた勇者を探せ」

主人公は勇者を探す旅に出る。
だが、その勇者は後に生まれる、主人公自身の息子だ。

つまりこの物語は、結婚し、子を残さなければ世界が救えないゲームなのである。

 

■結婚という“選択”が物語の核心

息子を得るには、当然ながら妻が必要になる。
本作にはシリーズ屈指の重要イベント、主人公の結婚が用意されている。

選択肢は二人。
幼馴染のビアンカか、大富豪の娘フローラか。

この選択を巡る議論は、発売から何十年経っても終わらない。
俺の結論は、「選択肢に答えはない」だ。

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ビアンカという「物語の暴力」

ビアンカは主人公より2歳年上の幼馴染だ。
幼少期に一度離れ離れになるが、10年後に再会する。再会後、彼女は「また一緒に冒険しよう」という昔の約束を果たすため、旅への同行を申し出る。

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お転婆だった少女は、優しく綺麗な女性へと成長している。
男の夢が詰まった設定だ。

ビアンカは「選択肢」であると同時に、
選ばざるを得ない方向へ感情を押し流す装置として設計されている。
これは救済ではない。物語による、静かな暴力だ。

 

■フローラは本当に「ポッと出」なのか

一方のフローラ。
大富豪・ルドマンの娘で、上品で心優しいお嬢様だ。

幼少期に「不思議な運命を背負っている」と占われ、8年間修道院で修行してきた過去を持つ。
後に、彼女が勇者の血筋であることも明かされる。

ビアンカ派はよく言う。
「ポッと出のお嬢様と結婚する神経がわからない」と。

だが、そこはみかわしきゃくでかわしたい。
PS2版リメイクでは、主人公と幼少期に出会っている描写もあり、
ビアンカほどではないにせよ、フローラにも“運命”の下地は用意されている。

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■プレイヤーを悩ませにくる夜

ルドマンに認められた主人公は、フローラとの結婚を勧められる。
しかしフローラは、その場にいたビアンカの恋心を察し、決断を主人公に委ねる。

こうして選択が突きつけられる。
ビアンカか、フローラか。

その夜、悩むのは主人公ではない。
プレイヤー自身だ。

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■不純な動機と、純粋な物語

フローラを選ぶと、金、水の羽衣、神秘の鎧、そして天空の盾が手に入る。
まさかの天空の盾である。

この豪華特典のせいで、フローラを選ぶ動機はどうしても不純に見える
(実際は、誰を選んでも天空の盾は手に入るのだが)

一方で、ビアンカの境遇は執拗なほど情に訴えかけてくる。
逆玉という存在があることで、「幼馴染と添い遂げる純愛」はより強調される。

淡々とプレイすれば、ビアンカを選んでしまう物語になっているのだ。

 

■世界に必要なのは何か。

数少ないフローラ派は、こう言う。
「世界の平和に必要なのは、金と天空の盾とイオナズンだろ」
ビアンカって打撃強すぎない?怖いんだけど」

そういう意見があってもいい。
ただ、俺とは気が合わない。

制作側も「9割はビアンカを選ぶと思っていた」と公言している。
そして公式設定では、フローラを選んだ場合、
ビアンカは主人公を忘れられず、生涯独身を貫く。

ここまで来れば、ビアンカ派が多数になる理由は明白だ。

 

ビアンカは“試金石”である

重要なのは、ビアンカが「報われるヒロイン」ではない点だ。
彼女は、プレイヤーが何を大切にする人間かを測る装置である。

効率か、情か。
世界か、思い出か。

ドラクエⅤは「お前はどういう人間か?」と問いかけてくる。
その問いを、最も残酷な形で突きつけてくるのがビアンカなのだ。

この結婚イベントには逃げ道がない。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
どちらを選んでも、「正しかった」とは言わせない。

ビアンカを選べば、世界より私情。使命を放棄した気分になる。
フローラを選べば、大切なものを裏切った気分になる。

選ばなかった側への罪悪感は、必ず残る。

だからこそドラクエⅤは、
選択のあとに残るモヤモヤそのものを物語の核にしているといえる。

自由とは、気持ちよさではない。
選んだあとに残る後悔と責任を引き受けることだ。

ドラクエⅤは、感情に責任を取らせる教育的なRPGなのである。

笑い、について

笑う行為を不思議に思う。

以前もそんなことを書いた。「笑うって、なんなんだろうね」という、かなりぼんやりした文章だったと思う。

その後、関連書籍をいくつか読んでいると、笑いには“必要性”があると説く文献がいくつも出てきた。

笑いが身体に及ぼす影響は、いまだ不明な点も多い。だが、無視できない事例が存在するのも事実らしい。

1964年、平和運動家のノーマン・カズンズは、周囲からの批判やプレッシャーにさらされ、強い精神的ストレスを抱えながら日々を過ごしていた。

そんなある日、身体に異変が起きる。全身が「トラックに轢かれ続けているかのような」激痛に襲われ、自力で身体を動かすことすら困難になったという。

診断は、重度の膠原病(実際には強直性脊椎炎とする説が有力だ)。

当時、有効な治療法はほとんどなかった。

絶望の中で彼が思い出したのが、ストレス学説にあった。

「ネガティブな感情は身体に悪影響を及ぼす」

という一文だった。

――ならば、逆もあるのではないか。

主治医と相談のうえ、彼は病院を離れ、快適なホテルで過ごしながら、ひたすらコメディ映画やお笑い番組を観て笑う、という“実験”を始めた。

すると、変化が起きる。

10分ほど腹を抱えて笑うと、全身の痛みが数時間和らぐのだ。

これを続けるうちに、痛みのない時間は次第に増え、最終的には社会復帰できるまで回復した。

もちろん、笑いだけで病気が治った、とは言えない。

体力、環境、医療的ケア。複数の要因が重なった結果だろう。

それでも、笑いが回復を後押しした可能性は否定できない。

近年の研究では、笑うことで免疫機能の一部が活性化する可能性も示唆されている。

血液中にはナチュラル・キラー細胞(NK細胞)という免疫細胞があり、ウイルス感染細胞や腫瘍細胞を攻撃する役割を持つ。

一部の研究では、笑いやポジティブな感情が、NK細胞の活性を一時的に高める可能性が報告されている。

ただし、「笑えばガンが治る」わけではない。

これはあくまで補助的な作用であり、医療行為の代替にはならない。

それでも――

副作用がなく、金もかからず、しかも気分がよくなる行為が、身体にとってプラスに働くかもしれない。

そう考えると、笑いは

「安上がりな回復ブースター」

くらいが、ちょうどいいのではないだろうか。

ユーモア、について

ユーモアという言葉の意味を、知っているだろうか。

多くの人は「笑いのセンス」程度の認識だろう。俺もそうだった。

ところが調べてみて驚いた。

“ユーモア(humor)”の語源的な意味は、【体液】である。

意味が分からないと思う。

笑いと体液なんて普通は結びつかない。

かつての西洋医学には「体液説」という考え方があった。

人間の体質や病気は、四つの体液のバランスによって決まるという理論だ。

血液、粘液、胆汁、黒胆汁。どの体液が優勢か、

あるいは均衡が崩れているかによって性格や体調、気質まで説明されていたらしい。

今となっては眉に唾をつけたくなる話だが、当時は本気で信じられていた。

この体液説をネタにしたのが、イギリスの舞台喜劇だった。

体液のバランスを崩した結果、妙な言動を取る「変人」を描き、

観客はそれを見て笑った。

ここで、「humor=笑い」というイメージが定着する。

やがて体液説そのものは医学の世界から消え去り、言葉だけが生き残った。

意味は削ぎ落とされ、ユーモアは「笑い」だけを指す言葉になった、というわけだ。

さて、「笑い」は社会と切っても切り離せない存在だ。

だが、ここには一つ大きな誤解がある。

笑いは、しばしば「感情」だと思われている。

「あの人は笑っている。きっと楽しいんだろう」と。

だが、それは違う。

内心かなり愉快でも無表情な人はいるし、逆に、まったく面白くなくても笑っている人は山ほどいる。

つまり、愉快な感情が笑いを引き起こすことはあっても、笑いそのものは感情ではない。

笑いは反応だ。

人間の脳は刺激を受けると、瞬時に判断する。

これは笑うべきか。笑うなら、どの程度か。

口角だけか、声を出すか、手を叩くか。

その判断結果を、電気信号として筋肉に送り、表情や動作として出力する。

「これは面白い。笑え」「面白くないが……とりあえず笑っとけ」

生意気を言われても笑顔で対応する。場の空気を壊さないために笑う。

人間は、自分の感情を押し殺しながら笑いを演じる能力を持っている。

シェイクスピアは言った。「人生は芝居だ」と。

人間は誰しも多少なりとも役者であり、

笑いは、その中でも最も使い勝手のいい演技なのだろう。

俺はよくラジオを聴く。あの世界には「笑いのサクラ」が存在する。

これが恐ろしいほど効果的で、自分でも理由が分からないまま、

つられて笑ってしまう。

笑いは伝染する。もらい泣きや、あくびと同じだ。

人間には本能的に共感するメカニズムが組み込まれている。

相手が笑えば、こちらも笑ってしまう。それは条件反射に近い。

人間が社会で共同生活していくうえで、共感は協調や助け合いの基盤になる。

笑いとは自分を守りながら、相手との関係も壊さないように防衛本能で、

暴力や衝突の発生を食い止めるための、極めて実用的な行為と思える。

人は楽しいから笑うとは限らない。笑うから、場が壊れずに済んでいるだけだ。

ユーモアとは、感情の問題ではない。社会を円滑に回すための、もっと生理的で、もっと冷静な装置だ。

そう考えると、笑いという行為は、ずいぶん理性的で、怖い。

 

AI、について

最近、AI技術が業界に浸透しているというニュースをよく目にする。

ネットニュースでは、タッチパネルで注文を完了すると、

「ご注文、承りました」

と機械音声が言い、アームの関節がウィンウィン動きながらコーヒーを淹れ始める。

おそらく将来、AI技術の恩恵で便利な暮らしをさせていただくのだろう。

とは思うのだが、正直なところ、いまだに

「本当にそんな時代が来るのか?」

という感覚も拭えない。

こんな記事を見かけた。

ある日、スーパーにやって来たお客が、ペッパーくんに「牛乳はどこで買えますか?」と尋ねたそうだ。

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「牛乳売り場です」
このザマだ。

 

AIについて語る際に、フレーム問題という言葉が出てくる。

これは、「何を考慮して、何を無視すべきか」を

完全に決めることが原理的に難しいという話になる。

簡単に言うと、すべてを考え出すとキリがない。

でも、どこまで考えれば十分なのかも決められないという話だ。

フレーム問題を説明する有名な思考実験を参考にしよう。

人工知能搭載ロボット「安全くん1号」。

安全くん1号は、人間の代わりに危険な作業を行うために作られたロボットだ。

今回与えられた目的は単純である。

「爆弾が仕掛けられた危険な部屋から、美術品を取り出せ」

安全くん1号は、美術品を見つけては、部屋に用意された台車に美術品を載せ、そのまま部屋の外へ押し出した。

ミッション成功――のはずだった。

しかし、爆弾はその台車に仕掛けられていた。

結果として、安全くん1号は美術品と一緒に爆発に巻き込まれてしまう。

何が問題だったのか。

安全くん1号は、「美術品を出す」という目的だけを忠実に実行した。

だが、台車を使うことで爆弾も一緒に運び出してしまう可能性を考慮できなかった。

一見すると正しい行動でも、

背景にある影響を見落とせば、結果は破滅的になる。

この失敗を踏まえ、改良型として「安全くん2号」が作られた。

今度の安全くんは慎重だった。

台車を動かすことで起こりうる影響を、すべて事前に考えようとしたのである。

・天井が落ちるかもしれない

・壁の塗装が変わるかもしれない

・設備の温度が変化するかもしれない

考慮すべき影響は際限なく増え、
結果として、安全くん2号は何も行動できなくなってしまった。

AIがすべてを考えようとすると、

処理しきれなくなるという、別の問題が露わになったのだ。

この二つの失敗例が説明しているのが、フレーム問題(Frame Problem)である。

要点は単純だ。

AIは、
「関連することだけを選んで考える」ことが極端に苦手

という事実である。

人間なら無意識に切り捨てている情報、

たとえば床の分子構造や、壁の微細な変化。

AIは「無視していい理由」を持たない。

整理すると、こうなる。

 

安全くん1号

目標だけを見る。爆弾ごと運び出して爆発。

目標だけを追うAIは危険になりやすい。

 

安全くん2号

すべてを考えようとする。何も行動できない。

考えすぎるAIは無力になる。

 

つまり、どこまで考えさせるかを人間が設計しない限り、

AIは「危険」か「無力」のどちらかにしかならない。

この問題は、すでに現実の話でもある。

自動運転、医療AI、軍事・警備システム、

私たちはすでに、AIの判断に命や安全を委ね始めている。

フレーム設定を誤れば、AIは「命令通りにやっただけ」で重大な事故を起こす。

そのとき責任は、AIではなく、設計した人間側に戻ってくる。

悪いのは、指示の出し方であり、範囲の設計であり、

「言わなくても分かるはずだ」という暗黙の常識を押し付けた人間だ。

フレーム問題が教えてくれるのは、

AI倫理以前に、人間の設計責任という現実である。

AIを賢くするだけでは足りない。賢さより、枠組み。

重要なのは、どう考えさせないかを決めることだ。

この教訓は未来の話ではなく、すでに現在進行形だ。

 

人間は、一つの痛みを深く知っている。

AIは、無数の痛みの共通点を知っている。

どちらが優れている、ではない。役割が違うだけだ。

わがまま、について

 

■男のもっともらしい不満

女性のわがままに手を焼いている男は、少なくないだろう。
「身勝手」「欲張り」「気まぐれ」。
そう決めつけたくなる瞬間があるのも、無理はない。

こちらが合わせ、我慢し、気を遣っているつもりでも、
「なんだその顔は」「それでも不満なのか」と思う場面がある。
なぜ女性は、こちらを試すような言動を繰り返すのか。

ここで多くの男は、「感情が不安定だから」「気分屋だから」と結論づけてしまう。
だが、その理解は少し雑だ。

 

■「わがまま」は感情ではなく、確認作業だ

女性のわがままは、単なる気まぐれというより、
関係性を測るための確認行為 と捉えたほうが実態に近い。

・この人は、私を軽く扱わないか
・都合のいい存在にしないか
・こちらの価値を下げたまま関係を進めないか

こうした問いを、言葉と態度で投げかけている。
わがままは、関係の中で自分が雑に扱われていないかを測る行為に近い。
それは何のために?
本来はじっくり時間をかけて、より優れた遺伝子を選別したいところだが、遺伝子を受け入れられる期間は限られている。
「時間をかけて男を選びたい」一方、「もう待てない」と言う気持ちが混在している。
そんな本能的な焦りが「わがまま」と言われる態度で試練を課しているように思える。

 

ここで重要なのは、
女性自身が必ずしも「試している自覚」を持っているわけではない、という点だ。
意図的な操作というより、不安と欲求が同時に立ち上がった結果 に近い。

安心したい。
だが、簡単に安心してしまうのも怖い。
この相反する感情が、同時に存在していると考える。

 

■露出が生む誤解

この構造が最も誤解されやすいのが、
脚や胸元を大胆に見せる、露出の多い服装だろう。
男はそこに、「誘い」という単純な意味を読み取りがちだ。

そこが、すべての勘違いの出発点だ。
これは、「見せるかどうかを選ぶ権利は自分にあるが、
それをどう受け取るかまでを相手に委ねたわけではない」という、
主導権の主張に思える。

「見せたい」と「勝手に踏み込むな」は、同時に成立する。
欲望が一列ではなく、並列で動いているだけだ。

男は欲望を一本の線で処理する。
女性は複数の感情を同時に走らせる。
この違いが、すれ違いを生む。

 

■結婚すれば終わる、という幻想

ここで、男はもう一つ大きな勘違いをする。

「結婚したのだから、もう確認は終わっただろう」

だが女性にとって結婚は、合格通知ではない。
「更新制ライセンス」だ。

環境が変わる、役割が変わる、年齢も立場も変わる
家事や育児は、努力しても履歴として残りにくい労働だ。
何かが積み上がっている感覚こそ自分を確認できる。

家庭に入れば、安心の基準も変わる。
だから確認は続くのだ。

これは不誠実さではない。
関係を維持しようとする行為である。

 

■矛盾しているのは、誰なのか

女性は、正反対の欲望を同時に抱える。
だが、それを「矛盾」と感じているのは、多くの場合、男の側だ。

一つの行動には一つの意味しかない。
そう思い込む認知のほうが、むしろ単純すぎる。

女性はシステムだ。
複数の感情が、状況に応じて前に出たり下がったりする。

もしそれを「バグ」だと感じるなら、
それは相手ではなく、読み取り方の問題かもしれない。

 

■じゃあ男はどう振る舞えば良いのか

結論から言えば、男がやるべきことは多くない。
「正解を当てよう」としないこと。
そして、「判断権は常に相手にある」と腹をくくることだ。

露出の多い服、気まぐれな態度、急な甘え、急な拒絶。
男はつい、それらに一つの意味を与えたくなる。

・これは脈ありだ
・ここまで来たなら次はイケるはずだ
・そっけない、嫌われたのか

だが、女性の行動はそもそも単一の意味を持たない
「惹きつけたい」と「守られたい」が同時に走っているだけだ。
解釈が徒労に終わることになる。その労力の代償を相手に求めることもできない。

ただ岩のようにジッと我慢すればいいとい話でもない。
男の沈黙を「理解」とは受け取ってもらえない。
多くの場合、「何も考えていない」か「どうでもいいと思っている」と評価される。
黙って耐える男より、不器用でも境界線を示す男のほうが、よほど信頼される。

 

■「理解しよう」としすぎない

最後に、一番大事なことがある。

相手を完全に理解しようとしないことだ。
そんなことは、誰にもできない。

理解できないからといって、軽んじていい理由にはならない。
分からないまま、尊重する。
その距離感を保てる男だけが、長く信頼される。

女性は、矛盾しているのではない。
複雑なのだ。
その複雑さに、単純な答えを求めすぎたとき、すれ違いが生まれる。

 

FROM 親不孝

福岡には「親不孝通り」と呼ばれる通りがある。

夜になると、この通りは熱を帯びる。

ROCKやHIPHOPが根を張ったクラブ街だ。

音に引き寄せられるように、血気盛んな若者たちが集まってくる。

俺が初めてクラブの床を踏んだ場所も、親不孝通りだった。

最近はどうも元気のない親不孝通りだが、

今でも通りを眺めれば、心に青春の風が吹く。

名前の響きから、夜遊びの象徴のように思われがちだが、

「親不孝通り」という呼び名の由来は、もっと現実的だ。

かつてここには予備校が立ち並んでいた。

浪人生が親の財布を削っていく様子を揶揄して、

いつしかそう呼ばれるようになった。

しかし少子化とともに予備校は姿を消し、

街は別の顔を持ち始めた。

名前が先にあり、街がそれに引きずられていった――

そんなふうに語る人もいる。

治安がどうだとか、雰囲気がどうだとか。

理由は、だいたい後付けだ。

とにかくトラブルが絶えない場所、という認識が定着した。

イメージを変えようと、通りは一度「親富孝通り」と名を改めた。

(親が富み、子が孝行する、という意味らしい。)

クリーンな街づくりに取り組んだが、街は思うようにならなかった。

「名前が変わると、思い出まで消えてしまう気がする」

そんな声が増え、2017年2月、通りは再び「親不孝」を名乗ることになった。

俺はこの名前が好きだ。

綺麗事を拒む感じが、街にも、人にも、よく似合っている。

中年サラリーマン曰く、景気が良かった頃は、制限の緩い経費で飲み食いできた。

だからこの通りも潤っていたという。

だが景気が落ち、財布の紐が固くなると、人は途端に正直になる。

安い店へ行き、別の居心地のいい場所を選ぶ。

人の流れは、西通りや大名へ向かった。

女性向けの店が多く、明るく、華やかで。

男という生き物は、結局のところ、女性のいる場所へ吸い寄せられる。

その変化を、俺は遠くから見ていた。

2007年、大名のアパレルで働いていた頃、

街の空気が少しずつ変わっていくのを、肌で感じていた。

若者の街にサラリーマンが流れ込み、街は曖昧な顔つきになっていった。

今では居酒屋が、増えては消え、増えては消える。

紺屋町通りを境に、赤坂側には中年向け単価の店が並び、

天神側では、学生と思しき若者たちが安さを求めて列を作る。

天神は、街ごと呼吸をするように姿を変える。

少し目を離せば、昨日まであった店は、もうない。

俺も29歳になった。

もう若者ぶるには無理があり、

完全な大人を名乗るには、どこか心許ない。

どこにも完全には属せない、そんな年齢だ。

親不孝通りは、昔ほど騒がしくない。

俺と同じで、少しずつ静かになった。

それでも、俺の記憶の中では、この通りはまだ若い。

それはたぶん、これからもだろう。